泥臭く、アツく、そして優しく-DLA Piper Tokyo Partnership外国法共同事業法律事務所 野中高広

泥臭く、アツく、そして優しく

2020年は元には戻れないほどモノゴトがデジタル化した年と言っても過言ではありません。

しかし「人」が大事であること、「人」が問題解決することに変わりはありません。

デジタル化が進んだ世の中だからこそ「人」に着目し、デジタルと寄り添いながら従事する弁護士の内面を伝えたく今回「弁護士の志や生き方」を読者に伝える為にインタビューを企画しました。


今回インタビューを受けてくださる先生は
DLA Piper Tokyo Partnership外国法共同事業法律事務所 パートナー弁護士の 野中 高広さんです。

様々な経験を通して、先生の生き方をアツく語っていただきました。

野中先生のプロフィール

<学歴>
– 東京大学法学部(1998年、B.A.取得)
– ジョージタウン大学ローセンター(2011年、LL.M.取得)

<経歴>
– 2000~2010年:裁判官として東京地家裁、名古屋地家裁、高知地裁、最高裁人事局などで勤務し、各種民事事件、刑事、家事事件につき、訴訟・審判・調停案件を担当
– 2003~2004年:トヨタ自動車人事部で、技能系社員の人材育成や労働案件を担当
– 2006~2008年:ワシントンDCの在米国日本国大使館で外交官として勤務し、FCPA、競争法、輸出管理、各種訴訟などを担当
– 2010~2016年:米国系国際法律事務所にて弁護士として勤務
– 2016年10月よりDLA Piper Tokyo Partnershipへ

<所属、主な活動>
– 一橋大学大学院法学研究科ビジネスロー修士課程 非常勤講師(国際紛争解決を担当)
– 第二東京弁護士会の情報公開・個人情報保護委員会に委員として所属

<主な著書>
– AI・ロボットの法律実務Q&A
– 完全対応 新個人情報保護法-Q&Aと書式例-
– Q&A改正個人情報保護法-パーソナルデータ保護法制の最前線-

幼少期の海外生活を通じ国際ビジネスへの淡い憧れ

商社に勤務していた父親の仕事の関係で、3歳から小学1年まで、エジプトのカイロで暮らしました。家の目の前にはナイル川、家のすぐ後ろにはゴルフ場という自然環境のもと、母親がゴルフをしている間、一日中バッタを追い回していました。

英国系のインターナショナルスクール(幼稚園)への通学がきっかけで、周りの子たちとコミュニケーションをとるようになりました。かけっこや運動に自信はありましたが、アフリカ系や南米系の友だちのスピードや運動能力には叶わないなと思ったことを覚えています。

好奇心が旺盛で、なんでも一生懸命、がむしゃらに頑張るタイプの子供だったようです。2歳上の姉の後ろをいつもついて回って、一緒に遊んでもらっていました。いっぱい泣かされもしましたが(笑)。

エジプトでの生活は刺激的で、車で30分ちょっとでピラミッドやスフィンクス。週末にはアレキサンドリアやルクソール、夏休みにはヨーロッパ全域を車で旅行するなど、たくさんの経験をさせてくれた両親にとても感謝しています。たくさん写真を撮って残してくれたお陰で、こうして当時の記憶を鮮明に思い出すこともできます。

そういった生活を送りながら、いつかは飛行機で飛び回って国際的なビジネスがしたいなという淡い憧れを持つようになりました。

エジプトから帰国後は、公立の小学校に通いつつ、母親に連れて行ってもらい、剣道、野球、水泳、ピアノ、百人一首などを習いました。その後、中学1年から6年間、開成学園で主に勉学に励みました。野球部に所属しましたが、高校からは好奇心が更に旺盛になり(笑)、遊びを優先していましたので、成績は下がっていきました。
なんとなく文系、なんとなく東大、なんとなく法学部。最近若手や学生から真剣な人生相談を受けることもありますが、自分自身を振り返ってみると、目的意識に欠け、それほど真剣に考えていなかったわけですから、全くえらそうなことは言えません(笑)。

失敗してもいいからチャレンジしよう

大学に入ってからも好奇心旺盛のスタンスは変わらず、何事にもチャレンジしてみよう、失敗してもいいからやってみよう!と行動していました。知らない世界にも入ってみよう、世の中をもっと知ろうという意識が常にあったような気がします。

小さい頃から勉強ばかりしてきたと言われることへのささやかな反発心というか、「世間を知らない」と少しでも言われないようにしようと、もがいていた側面もあります。塾講師や家庭教師はほどほどにして、トラックの運転、深夜の道路工事や警備員、深夜の倉庫での荷物仕分け、引越手伝い、お弁当のバイク配達、看板持ち、ティッシュ配りなど様々なアルバイトをして、しょっちゅう怒鳴られたりもしましたが、特に違和感なく過ごしていたと思います。

今振り返ってみると、このときに挑戦した様々な経験が、仕事や人生に少しは活きているのではないかなと思います。裁判官をしていたときも様々な人の立場に立って、少しでも気持ちを理解しようとしていましたし、いま交渉や紛争に臨んでいるときも、常に相手はどう考えるか、判断者はどう見ているかということを考えています。

また、ほんの少しだけ「現場」を体感してきたことで、いい意味で泥臭い人間になったのではないかなと自分では思っています。アツいというか、ちょっと暑苦しいというか(笑)。

司法試験の勉強は、周りの友人につられてなんとなく開始しました。小さい頃から淡く抱いていた国際ビジネスに関わる弁護士への憧れもありました。司法修習生になり、大手渉外事務所や検察官になる選択肢もあり、最後まで悩みましたが、自分には泥臭い仕事が合っているのではないかな、和解などで事件を解決していくのは楽しそうだと考え、裁判官として社会に出ることを決意しました。その後、中学からの親しい友人などには、「おまえがマジで裁判官?!」などとよく冷やかされましたね(笑)。

判断者の立場、とにかく書くことと、度胸を少し身につけた裁判官時代へ

裁判官として担当した事件については、またの機会にオフレコでお話しますが、いまとても役立っていることとして、まずは様々な視点に立つことや、裁判官を含む判断者の判断過程を想像できることでしょうか。弁護士として扱っているケースでいうと、裁判だけでなく、不祥事案件における当局対応でもそうなのですが、判断者や相手方の動きをよく見ながら交渉したり戦略を練ることが、少しだけ得意になったかもしれません。裁判や交渉で負けないこと、会社が受けるペナルティ、リスクを可能な限り減らすことを常に心掛けています。

それと、弁護士としてクライアントからいろいろな種類の書面を作成して欲しいと頼まれますが、それぞれの状況に応じてクライアントの意向や気持ちに沿って文章で表現することも、まぁまぁうまい方だと思っています。裁判官や外交官、そして民間企業での経験がとても役立っています。実は僕、話すのは得意そうだけど、中身がなさそうじゃないですか。実際に中身はあまりないんですけど、書くのはまあまあいけるんですよ(笑)。

裁判官は1年生から元日弁連会長、元最高裁判事といった大御所の弁護士、刑事事件ではちょっとコワい人たちともひるむことなく仕事をせざるを得なかったので、物怖じしなくなったのも良かったかもしれません。肩書、格の違い、経験や年齢が自分より上でも、ちょっとコワくても仕事は仕事、ビビっていては仕方がないですから。最近、若手に「謙虚さを忘れてはいけないよ」などと偉そうに言うこともありますが、当時の自分を振り返ってみると「あんたに言われたくないよ」というくらい謙虚さに欠けていたような気がします。

違った視点からモノゴトを見つめる

裁判官時代に、民間企業研修として愛知県豊田市のトヨタ自動車本社で、人事部人事室人事・研修グループの一員として1年間、勤務させていただきました。全く畑の違う人事部で研修を担当するなどしつつ、車通勤で会社員として過ごしました。

これはとても貴重な体験でしたが、現場の工場の人たちとお酒を飲んだときなどに、「俺たちの気持ちのわかる法律家になってくれ」とよく言われました。仕事も遊びもたくさんしましたが、このときの経験は自分の財産になっています。今でも親しくさせていただいている大先輩もいます。

2年間のワシントンDCでの外交官時代の仕事も、米国務省との交渉を含めてかなりエキサイティングで、国対国というあの緊張感と重責は忘れられませんが、ここでは割愛します。名古屋や高知の裁判所にいたときもそうですが、本当にいい思い出ばかりですし、自分の糧になっています。そういえば、高知でも美味しいお魚とお酒で毎日本当に幸せでしたね(笑)。

国際的な環境でビジネスがしたい強い気持ち

弁護士になってからもうすぐ11年になりますが、これまでもいろいろな人から「どうして裁判官を辞めてしまったのか?」と聞かれました。

裁判所を離れようと思った当時は、大使館やトヨタまで行かせてもらっておいて、やめるとは何事だとお叱りを受けるだろうなと思っていました(実際に後からたくさん言われました)。様々な経験を通じて、未熟な自分を育ててくれようとしていたのが痛いほどわかっていましたし、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。ですが、人生は1回きりです。

裁判官になることを決めてからも10年間ずっと悩みながら仕事を続けてきましたが、35歳になってふと立ち止まって考えた時、年を重ねてから新たにチャレンジするよりも、今しかないのではないか!これで失敗してもまあいいや、やってみよう!とジョギングしていたある早朝に一人で決めました。

小さい頃からの「国際的な環境でビジネスがしたい」という淡い憧れを叶えるために、弁護士にキャリアを変えることにしました。今振り返ってみると、国家公務員から民間人になるとはいえ、法律という小さな世界でこちょこちょ悩んでいたものだなあと思いますね。

それからのことは、ここでは深く話しませんが、正直言ってとても大変な茨の道でしたね(笑)。勘違いだらけのプライドを捨てて、自分の力と足で仕事をとりにいく営業姿勢を学び、自分の強みを少しでもクライアントのために活かせればと思いながら、がむしゃらに突っ走ってきた弁護士生活といったところでしょうか。毎日、海外や外国人とやりとりをしていて、小さい頃からの淡い憧れは少し実現できているのかなと思うと、心がほっこりと温まります。地球は自転しているので、どこかでやめないと仕事はエンドレスなので体が心配になることもありますし、海外の人とケンカをせざるを得ないことも日常茶飯事ですが(笑)。しかも、実はやっぱり泥臭い仕事が大好きなのです。

リーガルテックは敵ではなく協働する仲間

話は少し変わりますが、リーガルテック(法律×技術)が国内でも話題になるようになり、その影響で弁護士の仕事が減ってしまうかもしれないという悲観的な見方もあります。ただ私は、もっと前向きに考えるべきだと思っています。

AIを含む技術で実現可能な正確性、網羅性、調査能力などが人間より優れていることは間違いないので、どんどん導入すべきですし、そうしないと海外に立ち遅れてしまうのではないかと心配しています。弁護士は守りの姿勢ではなく、技術を活用しつつ、次のステージに向けて仕事のやり方を変化させなくてはいけないというのが基本スタンスかなと思っています。

リーガルテックと弁護士は共存するもので、お互いの長所を活かすことが大事かなと思います。弁護士としては、ある分野についての専門性、交渉力や説得話法、感情や機微を酌みこんで相手を説得する書面の作成、経験や他社事例から導き出すクライアントにとって最善の戦略提案、リスク軽減手法を提供することで力を発揮していくのかなと思っています。

言い換えると、リーガルテックと弁護士は敵対するのではなく、協働しコラボレーションするものではないか。例えば、リーガルテックと社内の法務・コンプライアンス担当者、そして弁護士の3者がそれぞれを補完し合いながら最善のサービスを提供するにはどうすればよいのか。今後より具体的に議論していきたいなと思っています。どんなことでもコラボレーション、チームワークの力ってすごいじゃないですか。僕も、弁護士として生き残れるように、リーガルテックの力も借りつつ、もう少しだけ頑張ってみます。

次世代の若者に自分の経験を共有したい

社会人として20年あまり、自分なりに精一杯走り続けてきました。周りの諸先輩からすると、まだまだ20年選手の若造ですし、「もっともっとやらんかい」と言われますが(笑)。いろいろな経験をさせてもらってきましたが、その裏では、ただがむしゃらに目の前のことに向かってきました。国際弁護士としての自己採点は正直、20点か30点くらいで、まだ振り返っている場合ではない気もしています。

そんな自分が言うのは大変おこがましいのですが、私なんかの何倍もできる優秀な若者に、自分の経験してきたことや失敗談を伝え、同じ失敗を繰り返さずに、より充実した人生を歩んでほしいなと思っています。

現在、一橋大学大学院で国際紛争・仲裁の非常勤講師を担当したり、日本国際法学生協会(JILSA)の模擬裁判のお手伝いなどを通じて、自分の経験や知識の共有や、活発な議論を楽しんでいます。いずれは寺子屋を作って、小中学生、高校生らと、人生のためになる勉強を一緒にしたいなと思っています。

いままで多くの人にお世話になり、迷惑もたくさんかけてきた分、一人でも多くの人を幸せや笑顔にしたいですし、次世代の若者には私の拙い経験や失敗を踏み台にしてもらいたい。そのために自分のもっている経験や感じたことを全て伝えたいと思うのです。将来何になってもらっても良いですが、海外で活躍する本当の勝負師を寺子屋から輩出できたら、何よりも幸せだなと思っています。

10年後には寺子屋、たぶんやっているような気がします。「寺子屋弁護士」というドラマの主人公になっているかもしれません(笑)。猫を観察し、何を考えているのかなと想像するのが大好きなので、「吾輩は猫である」にでてくるようなデキる猫と一緒に、若者と勉強をしつつ、難事件を解決してみたりしたいですね(笑)。

若い世代に今、伝えたいこと

まずは僕みたいな中途半端にはなるなよ!と言いたいです。自分の専門性や経験をベースに、自分の考えを的確かつ戦略的に外国の人たちに伝えたり、阿吽の呼吸でコミュニケーションをとりつつ勝負できるようになってほしい。そのためには若い頃から鍛えてくださいと言いたいですね。それと、キャリアにも仕事にもステージがあって、そのときどきでやらなきゃいけないことがありますよね。そのハードルを乗り越えてこそ成長していくと思うので、目の前のことにまずは集中して、コツコツと努力を続けて着実にこなすことを伝えたいです。

そのうえで、自分の将来を思い描きながらいろいろな先輩であったり、歴史上の人物も先輩だと思うので本や伝記をたくさん読んだり、さまざまな人たちがどういう生き方をし、どういった考え方をしていたのかに触れて、何かを感じてほしいと思います。向かっていくような意気込みを持って、何事にも挑戦していくことも大事ではないかなと思います。

やるからには何か目標を持って、そこに向かって全力でいかないと得られるモノも少ないのではないか。失敗したとしても、失敗を通じて学んだことを糧にして、前に進み続ければいいのではないか。

それと、つらいときには上を向いて笑ってみることですかね。毎日楽しいことばかりじゃなく、半分くらいはつらいことですし。あらゆることに波があるし、いいことも悪いことも集中することが多いです。仕事でも出会いと別れの連続です。いやなことが起きたときに、心のなかで「よっしゃー、自分が試されている」、「プレッシャーを楽しんでやる」などと思ったり、「実はこれチャンスかも」と思えるといいですね。「幸運は作業着を着てやってくる」という言葉も大好きです。

仕事に関しては、「読む」、「聞く」、「書く」、「話す」の基本動作ができているか、足りないところをコツコツと鍛えていくというのが、とてもシンプルですが大切かなと思います。

①コメントをする(感想を述べる)
②理由・データを示して意見を言う
③顧客のために理由・データを示して戦略的にディフェンスする
④説得的に文章化する
という各ステップを意識してクリアすることも大事ですかね。

それと感謝の気持ち。クライアント、先輩・同僚、両親、そして家族に対して。何よりも大事だと思います。感謝の気持ちを心に抱くだけでなく、行動に示す、あるいは行動に示すように努力するところまでもっていきたいですね。その他伝えたいことは尽きませんが、今回のインタビューがいい機会なので、もう一度整理してみて、自分でも実践していきます。

やさしさを軸に生きてみる

人生のそれぞれのステージで、感銘を受ける言葉や座右の銘は変わってきたなと思います。1年後には全く違うことを言っているかもしれません。

「国際的な環境でビジネスがしたい」という淡い憧れを実現するために、大事にしていた言葉や想いは「人生、1回」。それを決断にあたってのシンプルな基準としてきましたし、やらないよりはやってみる方向で、いろいろと挑戦してきました。失敗も数えきれないくらいたくさんしていますが。「人生を楽しむ」というのも心掛けてきましたし、コロナ禍の今は「健康第一」ですかね。

最近とても大事にしている言葉は「やさしさ」です。

司馬遼太郎さんの歴史小説の主人公が大好きなのですが、ある本で、「本当に凄い人はありえないくらいやさしいものだ」という部分が心に刺さりました。これまでがむしゃらに生きてきて、その途中で嫌なこともしてきましたし、人を傷つけることもありましたが、これからは、たずさわる人や生き物すべてに対して、とことん遠慮せずに「やさしくしてみよう」と思うのです。

最後に「先生にとって、『やさしさ』とはなんですか?」と聞いてみました。

相手にとって本当に役に立つことを、相手が心から喜んでもらえるように、僕にできることは全部やってみようということです。うっとうしくならない程度に、僕なりに全力でやりたいなと。

最近、よく聴く好きな曲があるという。斉藤和義の「やさしくなりたい」。
歌詞にはこのような一節がある。

愛なき時代に生まれたわけじゃない
キミに会いたい キミを笑わせたい

愛なき時代に生まれたわけじゃない
強くなりたい やさしくなりたい

愛なき時代に生きてるわけじゃない
手を繋ぎたい やさしくなりたい

「やさしくなりたい」と語る野中先生の瞳はとても優しく、情熱と愛に溢れていた。

インタビュー日:2021年1月15日

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