今を本気で、楽しく生きる プロアクト法律事務所 池永朝昭

<経歴> 1973 桐朋高等学校卒業
1977 早稲田大学法学部卒業
1981最高裁判所司法研修所修了(第33期)、弁護士登録
1981-87 国内法律事務所に勤務
1988 コーネル・ロー・スクール卒業(LL.M.)
1988-89 Baer Marks &Upham法律事務所トレーニー
1989-91 Dickinson Wright Moon VanDusen & Freeman法律事務所アソシエイト
1992-95 同事務所パートナー
1995 Mudge Rose Guthrie Alexander & Ferdon法律事務所パートナー
1995-98 Lathan & Watkins法律事務所パートナー
1998 チェース・マンハッタン銀行本店法務部アシスタント・ジェネラル・カウンセル
1998-2000 チェース・マンハッタン銀行東京支店ヴァイス・プレジデント法務部長 日本・韓国担当チーフ・リージョナル・カウンセル
2000-02 JPモルガン・チェース銀行東京支店及びJPモルガン証券株式会社ヴァイス・プレジデント法務部長 日本・韓国担当チーフ・リージョナル・カウンセル
2002-03 ドイツ銀行東京支店及びドイツ証券会社東京支店ディレクター・ジェネラル・カウンセル
2004-06 ドイツ銀行東京支店、ドイツ証券株式会社、ドイツ信託銀行株式会社及びドイチェ・アセットマネジメント株式会社マネジング・ディレクター・ジェネラル・カウンセル
2005-06 ドイツ証券株式会社執行役員(兼任)
2006‐21 アンダーソン・毛利・友常法律事務所パートナー
2021 プロアクト法律事務所入所

昨今、世界は元に戻れないほど刻々とデジタル化しています。しかし「人」が大事であること、「人」が問題解決することに変わりはありません。

デジタル化が進んだ世の中だからこそ「人」に着目し、デジタルと寄り添いながら従事する弁護士の内面を伝えたく「弁護士の志や生き方」を読者に伝える為にインタビューを実施しました。

今回インタビューを受けてくださる先生は、プロアクト法律事務所の池永朝昭さんです。

大病を患った幼少期

小さい頃は、どちらかというとのほほんとした子供でした。小学校4年生の時に「リウマチ熱」を患い長期入院していたため、体力的にもあまり活発とはいえなかったですね。

入院中、勉強の遅れを心配した母が算数を教えてくれたのですが、教え方が分かりにくい上に「分からない」というとひどく怒られ、後々まで算数・数学がトラウマになってしまったなんていうこともありました。

退院した後も激しい運動を禁止されていたため、クラブ活動もできず、学級委員や生徒会長などのリーダー的役割にも関心があるタイプではありませんでした。一方、当時はピアノを始めとする音楽的素養を子供に身につけさせようとする流行があり、私も例にもれず小学校5年生の頃からバイオリンを習っていました。

スポーツ少年だった学生時代

中学入学後、ようやく運動禁止が解かれ、ここぞとばかりに体操部に入りました。当時オリンピックで加藤澤男選手をはじめとする全日本チームが素晴らしい活躍をしており、それに憧れたのが理由です。

体操はずっと好きでしたが、中学2年の時に体操部が廃部になってしまったことをきっかけに転部してハンドボールを始めました。当時は結構熱心にやっていたため、よく怪我をして帰っていたことを覚えています。

高校受験が近くなってきて、当時家庭教師だった大学生の勧める高校に行こうかと漠然と考えていました。ですが、たまたま目に留まって学校見学に行った桐朋高校が素晴らしい環境ですっかり気に入ってしまい、そこを目指して受験をしました。

合格後は体操部に入り、体操に明け暮れました。桐朋高校はかつて全日本でも優勝したことがある体操の元強豪校でした。残念ながら私が入学した頃には弱くなっていました。

体操部の監督は全日本でも有名な選手だった方で国際審判員でもありました。実際に部活の練習環境はかなり整っていたと思います。スキルがなくて選手として大成はできませんでしたが、憧れの加藤澤男選手らオリンピック・世界選手権代表クラスの選手と同じ練習場で練習する機会などもあり、才能あふれる選手でも人知れず苦労していること、世界で戦うために血のにじむような努力をしていることなど学びの多い貴重な経験ができました。

部活以外だと、スキーをよくやっていました。スキーを始めたのは中学校の課外活動で菅平に行ったことがきっかけでしたが、高校では2月の入試の期間が1週間休みになるので必ず友人たちと行きました。今でも年間25日は滑りに行く大好きな趣味の一つですね。

きっかけは父のささやき!?司法を目指した経緯

将来の職業として弁護士を意識し始めたのは、中学生のころの父の言葉によるところが大きいです。父は外資系サラリーマンでしたが、中学生の頃から私に「サラリーマンにはなるな、医者か弁護士を目指せ」と繰り返しささやいていたんですよ(笑)。

これはきっかけに過ぎないとしても、当時は公害問題をはじめとして弁護士の活躍する事件が多く、弁護士という仕事をニュースや新聞で目にするうちに興味をもつようになり、高校の頃には机の横に「目指せ司法試験・目指せ弁護士」という張り紙を貼っていました。

弁護士以外だと昔お世話になった医者やパイロットなども興味を持った仕事でしたが、数学嫌いや視力低下などの理由から結果として弁護士になることを選択しました。

激動の大学時代とハードな司法試験

高校時代は勉強面では成績は良かったのですが、部活引退後の勉強の追い込み期に両親が離婚し、それにひどく影響を受けて受験勉強が全くできない期間が続きました。何とか大学には入れましたが、今思うと受験の時期は反抗期のような状態で、夜一人で自分の部屋で酒を飲んでました。

受験期の家庭問題のメンタル的な影響は大学入学後も大きく、勉強にも運動にも打ち込む気にはなれない期間が1年近く続きました。

また、私が入った頃の早稲田大学は学生運動の真っただ中で、過激派の拠点となっていました。セクト同志の鉄パイプをかざした衝突の場となることも多かったために学内全体が騒然としていたのを覚えています。ある時は、クラス討論のために集合していた法学部の建物の1階に某セクトから他のセクトへの襲撃があり、現場に巻き込まれそうになったこともありました。

このような内外の経緯もあり、本格的に受験勉強を始めたのは、大学3年生頃でした。法学部の読書室に良く出入りする受験生3人と司法試験受験用のゼミを組み、猛勉強をしました。この時のゼミのメンバーは同時期に4人全員が合格していますから、司法試験の最終合格率が2%なかった当時としてはいい結果だったと思います。

とはいっても、もともと集中力が長く続くタイプではなかったので勉強ばかりを続けると飽きてしまい、夏休みには気分転換に山に登ったりもしていました。当時は新田次郎の「孤高の人」などの小説に影響を受けて単独行の山登りにはまっていました。「山と渓谷」誌なども読んでロッククライミングをやっていたこともありました。

司法試験受験はとてもハードでした。3回目の受験で短答試験を受けてもあまり手ごたえがなく、落胆し「受かってないかもしれない、これからどうしようかなぁ」と八ヶ岳へ現実逃避の登山をしていたのですが、山を降りてから合格していたことが判明し、必死になって論文試験の勉強をすることになってしまいました。

口述試験に進んでも、質問があまりに難しく、口述試験期間中で5kgやせるほど追い詰められ、最終合格したときには「うれしい」というよりも本当にほっとしたのを覚えています。

海外に羽ばたく決意と苦悩

私達の世代はアメリカンカルチャーに憧れを抱いており、将来的に海外で学んだり働いたりすることを漠然と考えていました。「若いころにアメリカに行っておくといい」と父に言われたこともきっかけの一つですね。

弁護士になって2年目に過労から結核に罹患し、ある6月の夜に喀血し入院してしまいました。8か月間の入院生活で体力が落ちており、すぐに留学とはいかなくなってしまったのですが、それでもラジオや英字新聞でいつも英語の勉強をしていました。

退院後仕事に復帰しましたが、大病をしてハードな留学生活には耐えられないだろうと思っていました。しかし、事務所を移籍した後、国内案件を中心に担当しているうちに、もっと国際的に活躍の幅を広げたい、現状を打破して新しい世界を開きたいという思いが強くなり留学を決意しました。1期上の弁護士がちょうど留学から帰ってきており、彼からいろいろな体験を聞いて強く留学を勧められたことも決意した原因の一つですね。当時は国内でクロスボーダー案件を担当できる機会は渉外事務所でなければ珍しく、幅広く挑戦したい、力をつけたいと思うと国外に飛び出すしかなかったのです。

ただ、いざ留学という段になると英語で苦戦しました。TOEFLの点数も特別良いわけではなかったのですが、行きたかったコーネル大学に何とかアクセプトされ入学できました。今でこそネイティブに間違えられるほど英語を喋れるようになりましたが、当時は渉外事務所で日常的に英語を扱っていた同期を見てうらやましく思ったりもしました。英語力をつけるには努力・実践あるのみです。アメリカ現地での様々な経験を経なければ英語力は上達しなかったと思います。最近はNetflix、YouTubeやTikTokの英語物なんかもチェックして若い米国人のしゃべる英語を理解しようとしていますが、とにかく連中は早口で新しい表現もいっぱい出ていますね。

三つの転機

人生の転機は大きく三つありますね。

一つはアメリカでの事務所探しです。150の事務所に応募してインタビューに進んだのは3つ、そしてその中で唯一オファーをもらったニューヨーク市の中規模事務所で一年間トレーニーとして働きましたが、このまま日本に戻ったり、既定のトレーニーの路線に乗っただけでは成長は見込めないかもしれないと危機感を抱いたため、現地の事務所を探して更に経験を積もうと考えました。ヘッドハンターを使って探しオファーを3つの事務所からもらいましたが、日本の6年間の弁護士キャリアを十分加味したオファーを頂けたのは1事務所だけでした。新卒アソシエイトと同じような条件だったり、JDを取るために法律のナイトスクールに通ってくれと言われたり…。アメリカでは日本での弁護士経験・弁護士資格が全く見向きもされず、どれだけビジネスを事務所に引き入れられるかという点が日本人弁護士に求められます。この事実にショックを受けるとともに芽生えた反骨心が11年間のアメリカでの弁護士生活の原動力となりました。

二つ目は、パートナーとして参画したアメリカの事務所が空中分解したことです。
Mudge Rose Guthrie Alexander & Ferdon 法律事務所という名門事務所の一つでしたが、新たに参加したパートナーが上院議員時代に行った立法で大きな影響を受けた保険会社である大口顧客がそのパートナーを嫌って仕事を引き揚げて他の事務所に移し、その仕事をしていた30名の弁護士がそちらの事務所に移籍したことをきっかけに、事務所の先行きが急速に暗くなり、どんどんとパートナーが他に移籍しはじめたのです。これを見ていた銀行により、事務所の口座が凍結されてしまい、私の給与は出なくなりました。事務所は解散することになり、ロサンゼルスオフィスの賃料未払でパートナー弁護士全員が被告となる訴訟まで提起されました。訴訟は和解金を支払って終結しましたが、家を買ったばかりだったところに和解金が積み重なって膨大な借金を背負ってしまい、しばらくはクレジットカードで借り入れして生活をどうにか工面する状態でした。

この事件を受けて、選択の余地なく事務所移籍などをすることにもなり、私自身のキャリアにも大きな影響を与えました。最終的にはチェース・マンハッタン銀行に転職するときにジェネラル・カウンセルが身ぎれいにしろといってサイニング・ボーナスを出してくれて、借金はきれいに返済できました。この時の恩義は忘れません。

三つ目は、東日本大震災です。

震災当日は東京の茅場町で金融商品トラブルのあっせんをしていたのですが、あわてて帰る最中に町の電気屋のテレビに映った被災地の様子を見て非常に衝撃を受けました。これを機に、被災地のため、被災した方々のためにできることはないかと考え、被災事業者の方を支援するための法的スキームの構築に奔走しました。当時未曽有の被害が出ていた被災地では、既存の民事再生法などのスキームではその復興・支援に対応できなかったのです。

資本財をすべて失った事業者には借入金の免除、資本注入、無利息・低利息の融資等がまず必要ですが、国の財源にゆとりがありません。そこで民間の資金を導入してこれらをどうにかできないか、スキームを考え始めました。支援を求めてこられた石巻の事業者の方ともお話をして解決策を考え、それらの案などをブログや雑誌などで積極的に発信し続けていました。

日弁連の災害対策本部にも参画し、東日本大震災事業者再生支援機構法案を通すためのロビーイング活動、支援基準案の策定などを行った結果、法案が可決され、無事東日本大震災事業者再生支援機構が立ち上がりました。法案成立後は日弁連主催の支援機構法解説の研修講師も務め、現地で支援者と共に支援活動をつづけました。

これらの活動は、私の弁護士キャリアの中で、社会貢献のために自分ができることは何かという観点から熱意を持って取り組んだ初めての体験でした。ほとんど持ち出しで本気で社会的重要課題の解決に取り組んだ中で、いわゆる法律家としての「通常の業務」を超えて、働き方や仕事への向き合い方・人生観を考え直すきっかけとなりました。

インハウスから見た「いい弁護士」の重要性

事務所の経験も非常に活きていますが、インハウスで経験を積むと企業が内部でどのような検討を経て行動しているのか、企業側からの依頼はどのような意図でなされているのかといったことが分かるようになります。

また、外部弁護士を選定する際の基準が分かります。いわゆる「いい弁護士」、企業が頼みたくなる弁護士の基準ですね。

ここ数年で大きく状況が変わっていますが、かつて弁護士は全体的にソリューションプロバイダーとしての自覚が希薄でした。だから例えば「新規事業を始めたい」という相談に対して「違法の疑いがあるのでできません」という「まずい」回答だけをしてしまう。適法に事業を行う道があるのか、どうすれば顧客の目的が実現できるのかという視点が欠けている弁護士が多かったです。加えて「返事が遅く」「ギャラが高い」という「まずい・遅い・高い」の3拍子揃った弁護士も残念ながら割といました。クライアントの立場からこういった弁護士の仕事の良しあしを自然と学ぶことができたのは勉強になりました。

また、私はジェネラル・カウンセルとして入社したので、経営面での役割も期待されていました。企業を経営するには様々なことを考えて他部門と協力してやっていかなければいけません。その経験ができたのは大きなポイントでした。目の前の法的な側面のみならず、様々な問題を長期的・俯瞰的に見ないと会社の運営はできないですからね。

最近起業する弁護士やキャリアのほとんどを企業で過ごす弁護士も増えてきていますが、やはり弁護士が経営に携わる、というのはとても大事な観点です。とはいっても、当業界では、企業のように組織の発展や国際社会での競争力を意識して運営されている弁護士事務所は、現在も国内大手を含めても数えるほどしかないように思います。弁護士事務所はまだまだテクノクラートの集まり、という性格が強いですね。

弁護士人生のこれから

連日ニュースにもなりますが、日本企業は多くのガバナンス上の問題を抱えています。今後はこういったガバナンス問題の解決も含め、法律を超えた総合アドバイザーとしての仕事をもっとしていきたいと考えています。まだまだやりたいことをやり切れていないのでどんどん活動をしていきたいと思いますね。

加えて、若い人に自分の経験や技術を伝えるなど、若者のチャレンジを後押しする活動もしていきたいです。弁護士会でも留学制度や他国弁護士会との案件紹介制度の創設などに携わっていましたが、最近は起業するなどとても頑張っている若い方が多い。彼らを応援したいですね。また、一橋大学法科大学院で12年間企業法ゼミを担当した経験がありますが、そういった機会も含めて、経験を伝えていくこと、道を拓いて後進に託していくことがキャリアの締めくくりになるだろうと考えています。

座右の銘

特にないのですが、最近は「諸行無常」と言っています。これは何も無常観を言っているわけではなく、一瞬一瞬の今をとにかく一生懸命に楽しく生きることを大事にしていこうという信条のことを言っています。私の友人が好きな言葉だったのですが、彼が亡くなってからはより強く意識するようになりました。

深い経験に裏打ちされたパッションが伝わるインタビューでした。小学校の同級生からお仕事のパートナーまでご経歴の節目で出会った方々のお名前や人となりを詳細にお話下さったお姿が深く印象に残っています。こういった姿勢が「諸行無常」、ひと時ひと時を一生懸命生きてこられたことを体現しているのではないでしょうか。

池永先生、インタビューにご協力いただきありがとうございました。

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